第1話
8回『この子の名前、なんていうんですか?』
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「はよ、来いよ。
俺は気が短けぇんだ。
ついて来れねぇようじゃ、
置いてっちまうぜ」 |
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「少々、待ってくださるとありがたいです。
なにしろぼくは、
ペットショップの檻の中や、
ご主人さまの住む狭い部屋にて
閉じこめられていた身でありますので、
外の世界が不慣れなのです」 |
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「ちっ、軟弱猫が。
これだから、
飼われてる野郎は嫌いなんだ」 |
ぼくは忙しく四本の足を動かして、
黒猫の後を追います。
彼の足は速いです。
ぼくは付いていくのがやっとでした。
彼は凶暴な姿をしていますが、
中々のお節介もののようで、
口では「置いていく」と言っておきながら、
ちゃんとぼくが追いつくのを
待ってくれます。
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「あなたさまの名はなんと仰るんですか?」 |
石塀の上を歩いているときに、
ぼくは質問してみました。
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「俺か、俺はよ」 |
彼は考えるように、
横の屋敷に佇む椿の木を見つめます。
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「名はねぇ」 |
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「無いでありますか?」 |
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「周りは黒ってよんでるな」 |
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「色が黒いからでしょうか?」 |
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「そりゃな、
色が白きゃ、白だったんだろ。
おめぇはなんだ?」 |
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「ぼくの名前ですか?
ぼくは一体なんという、
名を持っているのでしょう?」 |
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「俺が知るわけないだろ、バカ。
飼い主の人間は、
おめぇのこと、
なんか呼んでんだ?」 |
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「ご主人さまは、
コロコロ呼び名を変えていましたがゆえ、
どれがぼくの名か検討が尽きません」 |
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「ふーん、じゃ、
名はまだねぇってことになんのか」 |
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「そうかもしれません」 |
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じゃ、
ごんべえ。
そこ、降りるからコケんなよ」 |
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「ごんべえ?」 |
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「てやんでぇ。
名無しは、
ごんべえと相場が決まってるんだ」 |
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「では、
ぼくの仮の名は、
そのようにいたしましょう。
ご主人さまに
名をつけてもらったら、
すぐ、黒様にお知らせします」 |
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「次に会う機会があればな」 |
門を飛び越え、
車道の前で黒は止まります。
耳をピンと尖らせて、
彼の尻尾がペシペシと地面を叩いています。
一歩も動こうとしません。
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「行かないですか?」 |
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「死にてぇなら行っていいぜ」 |
少しして、
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「もう平気だ、急ぐぜ」 |
黒はスピードを出して道路を走っていきましした。
遅れながら、ぼくも続きますが、
黒との距離は広がる一方です。
横から、
巨大な音がしました。
何事かと好奇心を引かれて、
急停止します。
「馬鹿野郎、止まってんじゃねぇ!」
黒の警告。
ぼくが振り向いた先は、
大型のトラックがありました。
もの凄い勢いでぶつかってきます。
ぼくは咄嗟に伏せをしました。
頭上を、
トラックがびゅんと通り過ぎていきます。
危機一髪。
伏せの体勢から立ち上がりました。
耳が少々ヒリヒリとします。
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「ヒヤッとさせるな馬鹿。
てめぇが小さいから無事だったものの、
俺の体格なら死んでたぜ」 |
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「いやはや、びっくりいたしました。
今のは一体なんだったのしょうか?」 |
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「んなこともしらねぇのか?
車だ。
あれだけは気をつけろ。
動いて無いときは
良い寝床になるんだが、
走っていれば危険だ。
あれに轢かれて
死んだ猫がごまんといるんだ。
おまえ、気をつけろよ。
絶対に気をつけろよ。
自分の方が強いなんて、
馬鹿なこと思うんじゃねぇぞ。
さっきのは運が良かったんだ。
次はないと思え。
道路を渡る時は、
耳を使え。
車が無いときに駈けるんだ。
いいな?」 |
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「承知いたしました。
黒さまのお言葉を、
深く胸に刻むことにしましょう」 |
分かるようで分からないような。
車に轢かれたら、
死ぬと聞かれても、
死とはどんなものなのか実感沸きません。
しかし、
黒がしつこく注意するのは
親切心からだと理解しています。
車という奴は、
ご主人さまの胸以上に、
危険な存在なのでしょう。
今後は車には気をつけようと肝に銘じました。
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「それとな、もうひとつ」 |
黒は顔を上げます。
羽の生えて、
鋭いくちばしをした
黒ずくめの生き物が電線の上に止まっています。
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「アレにも気をつけろ」 |
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「あれはなんです。鳥でしょうか?」 |
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「カラスだ。
目を合わすんじゃねぇぞ。
襲ってくるからな」 |
黒は前に進みます。
ぼくも、それに従いました。
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「あいつらはな、
あそこで動物たちが
轢かれるのを待っているんだ。
以前によ、
猫がさっきの道を横断したんだ。
耳を澄まし、
車には気をつけてたんだがな、
走っている最中に、
カラスが襲ってきやがった。
前方に鋭い爪が迫ってくるもんだから、
猫は驚いて、
後ろに逃げた。
すると車がやってきた。
ガツン!
アウトだ。
跳ねられて、
身動き取れなくなったところを、
カラスが集まって食ったんだ。
ぜーんぶ、計算通りよ」 |
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「猫を食うんですか?」 |
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「そうだ。
カラスは利口だ。
俺たち猫よりも
頭がいいと思いこんでいるんだ。
気に入らねぇだろ。
だから俺は、
カラスを食おうと決めた。
しかし、俺のような肉体派でも、
正面から激突は勝ち目がない。
一度目は失敗してご覧の様。
目を攻撃されて片方失明しちまったわ」 |
黒の左目が開かないのはそのためのようです。
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「二度目は成功したのですね」 |
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「カラスに勝つには知恵を働かせるしかねぇ。
それには
ネズミを使うに限る。
捕まえたネズミを道路に放置して、
奴が食っている間に隙を見て
襲うって計画を立てたんだ。
しかし、あいつら、
猫が捕まえたネズミだと気付いて、
手を付けようとしねぇ。
だから瀕死じゃなく、
足を動けなくしたネズミを置いてみた。
そっちは、
上手くいった。
奴は近寄って、ネズミを食い始めた。
そのチャンスに、
木の枝で潜んでいた俺が飛び出し、
カラスに食らいついたんだが……」 |
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「どうでしたか?」 |
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「食うには食ったが、
くせぇし、
クソ不味いしで、
たまったもんじゃなかったわ。
勝負には勝っても、
最悪な気分を味わったぜ。
もう二度とカラスには近づかんと決めたわ」 |
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「ぼくもそのようにします。
カラスと戦える黒さまは
勇ましいですな。
ぼくには到底、
そのような勇気は持てませんし、
食おうとしたところで、
逆に食われるのがオチです。
黒さまは、
猫界にとって自慢となるヒーローなのは
今の話で分かりました。
まさに猫の中の猫。
あなた様より立派な猫は他におりますまい」 |
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「へっ、おだてるんじゃねぇぜ」 |
まんざらでもなさそうに、
喉を振るわせ、
うにゃあと鳴きます。
黒の鳴き声は、
褒める要素が1つのないほど汚いものでした。
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「ついたぜ」 |
案内された先は、
ご主人さまのマンションよりも
何十倍もの広さがある
鉄筋コンクリートの建物でした。
隣には大きな広場があって、
ご主人さまより小さいですが、
カナメより
年齢も背も僅かに高い子供たちが
運動をしています。
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「ここは、どこでありますか?」 |
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「中学校だ。
人間のガキどもが収容されて
お勉強やらを受けている場所だ。
あん中には、
ネズミがうじゃうじゃいるんだぜ」 |
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「どこにも見あたりませんが」 |
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「当然よ。
猫に見つかれば食われる、
人間に見つかれば駆除される。
食い物だろうと生き物だ。
食われるのは嫌なのさ。
だから、
建物の下に隠れているのよ」 |
黒は、
フェンスの下の穴から敷地内に入っていきます。
建物には入らず、
壁に沿って進んで、
裏側へと回っていきました。
じめっとした空気を感じられ、
寝るには心地悪そうです。
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「人間には気をつけろ。
見つかれば追い出されるぞ」 |
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「分かりました」 |
中学校という建物に興味はありましたが、
好奇心を働かせて別行動すれば、
命に危険を晒すこととなるのでしょう。
ぼくは素人。
黒はプロです。
内部に侵入せず、
鼻を頼りに獲物を探す黒の言うままに付いていきます。
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「………」 |
黒の足が止まりました。
顔をかがめて、
前を睨み付けます。
ぼくもそちらの方を向きますが、
何も見えません。
焼却炉の近くに、
体操着姿の男子と女子が抱き合い、
キスをしておりましたが、
黒はそれに反応したのではなさそうです。
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「もし」 |
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「しっ」 |
声を掛けようとすると、
黙れと叱られました。
ぼくは黒の後ろで、
真っ直ぐに座り、
時がくるのを待ちます。
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「好きだよ」 |
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「私も」 |
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「ちゅー、ちゅー」 |
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「大好き」 |
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「俺も」 |
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「ちゅー、ちゅー」 |
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「何があっても俺が守るよ」 |
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「嬉しい」 |
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「ちゅー、ちゅー」 |
発情した男と女の唇を重ね合う音が
響いてきます。
それとは別。
ガサッという物音がしました。
何かが動いている反応があります。
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「ちゅちゅ」 |
じっと耳を傾けていると、
焼却炉の奥にあるゴミ捨て場から、
まん丸く、
偉そうな髭を付けた小さな生き物が出てきました。
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「ふふふふふふ、
くくくくくく」 |
黒の背中が上がり、
体毛を逆立てで体を膨らませます。
あれがネズミなのでしょう。
黒の静かな殺気がぼくに向いていたなら、
恐怖心でどうにかなってしまいそうです。
ネズミは鼻を鳴らしながら、
キスする男女の前を、
右方左方落ち着きなく歩いていきます。
少しずつ、
少しずつと、
近づくにつれ、
黒の体が膨らんでいきました。
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「ちゅっ?」 |
ネズミがこちらを向きました。
その瞬間、
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「ふぎゃあっ!」 |
黒が獰猛な声を上げてネズミを狙います。
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「ちっ!」 |
残念。
つかまれられなかったです。
ネズミはもの凄い勢いで逃げていきます。
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「追いかけるぜ!」 |
黒は走ります。
ぼくも後を追います。
男と女は
「ちゅっ、ちゅっ、ちゅー、ちゅー」
キスに夢中です。
窓から体育館へと入り込みます。
バスケをする生徒たちが運動に励んでいました。
スポーツと応援に夢中で、
ネズミを追いかける猫が入ってきても、
気付きません。
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「ちっ?」 |
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「ふぎゃーっ!」 |
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「ちゅちゅーっ!」 |
ネズミはこちらを見て、
追いかけてきていると分かると、
さらにスピードを上げました。
そして、
ステージ下にある小さな穴に入ってしまいます。
ぼくたちの大きさでは通れません。
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「へっ、追い詰めたぜ。こっちだ」 |
黒にとってはしてやったりのようです。
カーブをすると
ステージにあがる内部に駆け込みました。
階段の隣に穴があります。
ネズミが横を通っていきました。
狭く、窮屈な所をぼくたちは走ります。
蜘蛛の巣が顔に掛かりました。
顔を拭く時間はありません。
小さな窓を抜けると、
体育倉庫でした。
そこは夜のように真っ暗です。
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「どこいきやがった?」 |
ネズミは見つかりません。
黒はきょろきょろと探します。
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「いた!」 |
地面を走るネズミがいます。
黒は追いかけようとして、
体を止めました。
ネズミは走っています。
一匹、
二匹、
三匹。
跳び箱の隙間からも、
ネズミの顔が見えました。
それも何匹も。
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「おっと、こりゃやべぇ…」 |
黒は、
周囲を見回します。
光が見えました。
真っ赤な光がそこら中にあります。
ネズミたちの目です。
体育倉庫の至る所に、
大量のネズミたちが姿を現し、
カタカタカタと歯を鳴らしながら、
ぼくたちのことを見ています。
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「黒さま、
ネズミが大量にいますよ。
食べ放題です」 |
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「馬鹿野郎。
俺たちは罠にかかったんだ」 |
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「食えませんか?」 |
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「食う前に俺たちが食われる」 |
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「どうします?」 |
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「決まってるだろ」 |
合図としてぼくを見ました。
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「逃げるんだよ」 |
後ろを向くと、
黒は一目散に逃走しました。
さきほど抜けた小窓に入ります。
ぼくも後に続きます。
ネズミたちも、
シャーシャーと牙を立てて
ぼくたちを追いかけます。
鬼ごっこの立場が逆になってしまいました。
ステージ下の通路を抜けて、
体育館に戻ります。
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|
「ネズミだぁーっ!」 |
|
「きゃーっ!
なんなの!
大量のネズミがこっちにくる!」 |
大量のネズミが襲ってきたので、
バスケ中の生徒たちパニックになります。
警告の笛がビービー鳴り、
女生徒たちが悲鳴をあげ、
男子はボールをネズミたちにぶつけたり、
蹴ったりして攻撃します。
それでも数が多く太刀打ちできません。
ぼくたちは喚く人間たちをくぐって、
必死で逃げました。
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「ぎゃあっ!」 |
体育裏に来れば、
キスをしていたカップルが悲鳴をあげます。
共に逃げるのですが、
彼氏のほうは彼女を置いてすたこら去ってしまいました。
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|
「ちょっと
わたしを守るんじゃなかったの!
さいてーっ!」 |
女子は幻滅の叫びを上げています。
こうして、チュッチュしていたカップルは、
あっさり破局を迎えてしまいました。
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|
「ごんべえ。こっちだ」 |
黒は、
焼却炉の隣にある木に登っていきます。
ぼくは木登りは初体験でありますが、
だからと怖じ気付いたらネズミに食われます。
勢いのまま幹に突っ込んでみると、
猫にとって
木登りは産まれながらに備わった能力のようで、
苦労もなく
上へ上へと登ることができました。
ネズミは木には登れないようです。
根元の周りに集まり、
憎々しそうに上を見上げますが、
そのうち観念し、いってしまいました。
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|
「へっ、野郎ども。
俺が食ってばかりいるから
復讐しようとしたんかね。
ネズミごときが刃向かうなんぞ
百年早いわ」 |
黒は細い枝を器用に通っていき、
体育館の屋根へと飛びました。
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|
「それは、どうしたのです?」 |
屋根に着地してから、
口にぶら下がったネズミについて尋ねました。
|
|
「捕らえたに決まってるだろ。
転んでも
ただじゃあ起きねぇのがこの俺様だ。
人間どもが騒いでいるときに、
一匹狩ったのよ。
おまえは捕まえられなかったようだな」 |
|
「いやはや感服いたします。
ぼくは、逃げるのに精一杯で、
そんな余裕はありませんでした。
黒さまはさすがでありますな。
ネズミを穫らせたら、
右に出る猫はいないのではないでしょうか」 |
|
「褒めんなよ。
なんもやんねぇぜ」 |
ご機嫌に髭をピンと伸ばしました。
ネズミの前足が細かく震えております。
ぼくがのぞき込むと、
目がこちらを向きました。
瀕死でありますが意識はあるようです。
少々恐れたぼくは顔を戻しました。
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「黒さま、
ネズミとやらは本当に美味しいのでしょうか?」 |
|
「へっ、
ネズミを不味いなんて言う猫は
猫じゃねぇよ」 |
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「さきほども話したように、
ぼくは食べたことがないのです。
ちょっとぐらい、
味見してもよろしいでしょうか?」 |
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「駄目だ。
狩りのしかたは教えてやる。
だが、
俺が穫ったネズミは俺のもんだ。
他の奴にはやんねぇ。
食いたければ、
自分で捕まえろ」 |
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「厳しいですな」 |
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「当たり前だ。
強い奴は生きる。
弱い奴は死ぬ。
それが自然界のルールだ。
命を食うことで、
俺はここまで生き続けてきたんだよ」 |
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「自然界を生き延びるのは、
ぼくが思う以上に厳しいものなのですね。
困惑といたしますな」 |
|
「てめぇは人間に飼われる身だろ?
自分で飯を調達するのが嫌なら、
人間の姉ちゃんの元に戻って、
キャットフードでも食ってろ。
人間様が自ら進んで召使いになって、
おめぇのために尽くしてくれるんだぜ。
いいご身分じゃねぇか」 |
|
「黒さまは、
人間に飼われたいとは思いませんか?」 |
|
「ばーか。
俺は野良だ。
飼おうとする奴などいりゃしねぇし、
こっちもゴメンだわ。
俺は自由を選ぶわ」 |
|
「自由ですか?」 |
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「そうよ、自由だ」 |
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「自由とはなんでしょうか?」 |
|
「自由か、そうだな……」 |
黒は空を見上げます。
お天道様が眩しく、
毛並みをぽかぽか温めてくれます。
黒は目を細めました。
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|
「好きなところで昼寝することだ」 |
丘の上にある中学校の体育館の屋根から、
町の景色を見渡せます。
駅の周りに高層の建物が密集し、
建設途上のビルやマンションが幾つもあり、
さらなる発展が予想できますが、
賑やかなのは一部分のみで、
それ以外の場所は、
田んぼや畑が広がっておりました。
今のぼくは、
行こうとしたらどこにでも出かけられて、
好きなところで昼寝をすることができます。
自由を手に入れているのでしょう。
ご主人さまの元に戻れば、
ぼくは自由を失います。
マンション内にある狭い一室にて、
監禁されたまま、
暮らさねばなりません。
その代わり、
狩りをする必要はなく、
十分にエサを貰うことができます。
黒のように野良になるか。
飼い猫として、不自由に生きるか。
ぼくは、どちらが良いのでしょうか。
………。
……。
…。
ネズミの気配が消え、
人間たちが静まってきたのを見計らい、
ぼくたちは中学校を出ました。
黒は未だネズミをくわえたままです。
細かな痙攣を繰り返していたネズミは、
全身麻酔がかかったようにグッタリとしています。
まだ生きています。
黒は、自分の住まいに運んで、
そこでゆっくりと食事をするんだそうです。
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|
「おめぇ、どうする、
まだ俺に付いてくるんか?
来たきゃ来たっていいんだぜ。
ここらに住んでる猫のたまり場があるんだ。
紹介してやるよ」 |
|
「ありがたいお誘いでありますけど、
やめておきましょう。
ぼくは大層くたびれたであります」 |
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「じゃあ、ここでお別れだな」 |
黒は足を止めます。
鼻を斉藤と表札された家に向けました。
|
|
「この庭を抜けて、
真っ直ぐ進んでけば、
俺たちが出会った場所に戻るぜ」 |
至れり尽くせりとはこのことでしょう。
ぼくが迷子にならないよう、
わざわざ遠回りをしてくれていたようです。
外への第一歩を踏み出した時、
黒のような親切な猫を友にできたのは
幸運でありました。
|
|
「黒さま、本日はありがとうございます。
外へ出るのは初めての身、
黒さまとの出会いがなければ、
ぼくは路頭に迷っていたことでしょう。
猫界の勇者である黒さまを見習い、
ネズミを捕らえる一猫前になれるよう、
日々努力を
重ねていこうと存じます」 |
|
「へっ、
褒めてるんだか、
皮肉ってんだか。
てめぇの堅苦しい言葉遣い。
好きになんねぇな」 |
照れた顔を隠すように、
黒は尻を向けます。
尻尾は元気よく立っておりました。
|
|
「そうそう。
狩りをしたければ、
ゴキブリから始めるといいぜ。
てめえの姉ちゃんの部屋には
結構いるんだ。
ありゃ、
人間に嫌われている存在なんでね。
捕まえたら、ありがたがられるぜ」 |
|
「それは食えるのですか?」 |
|
「ああ、ネズミほどじゃねぇが、
なんつーか、
人間でいうスナック菓子だ」 |
|
「それらしき生き物を見付けたら、
捕まえて、
食ってみることにいたします」 |
|
「あばよ、縁があったらまた会おうや」 |
黒は走ります。
ぼくと居た時は全力でないと分かる素早さでした。
数秒せずに、
遠くにある屋敷の塀を越えて、
姿が見えなくなりました。
|
|
「黒さま。
再びお会いする日を、
楽しみにしています」 |
見送ったぼくは、
言われたとおりに、
一軒家の門をくぐって、
奥にある庭に入ります。
鎖に繋がれた犬が、
突然吠え出すので、
ぼくは急いで庭を出ました。
二軒先の家から外に出ると、
「車には気をつけろ」
と黒に注意された道路に出ました。
ぼくは言いつけに従うことに決め、
道の前に正しく座り、
耳を立てて、
左右を行き交う車が居なくなるのを待ちます。
徐々に車が通らなくなるにつれ、
逆に増えているのがありました。
カラスです。
ぼくが足を止めていたとき、
一羽しかいなかったカラスが、
五羽に増えていました。
電線の上、
木の枝、
ぼくのことをじっと狙っています。
一羽のカラスが羽を振り、
空の上で円を描くように回り、
鳴き声をあげてきます。
黒という頼りになるボディーガードを失ったぼくは、
危険の真中にいました。
黒い殺し屋が舞い降りてきたら、
なすすべもなく、
一発でやられてしまいます。
弱いものは殺される。
食われてしまう。
ぼくのように小さくてか弱な猫は、
黒に捕まったネズミと同じ目に遭うんだと、
ゾッとします。
足が振るえて、
恐ろしさに声を上げたくなりますが、
恐怖心を表に出せば、
カラスは喜んでぼくを襲ってくるでしょう。
ぼくは、自分が黒だと言い聞かせ、
平然とした態度を装います。
車が居なくなりました。
暫くは通ってきそうにありません。
急いで逃げる方が、
カラスの爪の餌食になると思い、
足を速くせず、
遅くもせず、
堂々と渡りました。
車道を抜けると、
砂利の細い路地を、
生垣に体を寄せながら通ります。
カラスが今も目線を送っているのが分かります。
先は一台の軽トラックが止まっていて、
壁が通せんぼしていました。
ぼくは車に乗り、
ジャンプをし、
塀の上にあがり、
その欲しい道を
出来る限りのスピードで走り抜けました。
カラスの影響で、
やや遠回りをしてしまい、
ご主人さまの住むマンションが分からず
迷子になってしまいました。
はて、どうしたものやらと困っていると、
ぼくの優れた聴覚は
「へいのすけたろーっ!」
というご主人さまの声を感知しました。
それを頼りに、ぼくは走りました。
|
|
「じょうたろぉぉぉーーーーっ!」 |
ご主人さまの住むマンションに到着です。
ベランダに上がると、
出たときと同じように
窓は開かれたままで、
カーテンがヒラヒラと招いていました。
ぼくはそっと、顔を覗かせます。
|
|
「むつごろぉぉぉぉーーーーっ!」 |
|
「ナツミさん、
さっきから名前変わっています!
ムツゴロウってなに?
動物王国っ?
もう、さっぱり。
一体、なにがあったんですか、
泣いてるだけじゃ分かりませんよっ!」 |
|
「わぎゃなねごひゃんがねっ!
部屋をめぎゃぎゃぎゃ、
わたしが悪ぎゃたんだけひょ、
わたぎゃひょうひしてて、
窓をあげひゃってたから、
にげひゃっうぎゃぁぁぁーーんっ!」 |
|
「ああ、もう、何言ってんのっ!
ナツミさんしっかりしてくださいよ。
わたしよりお姉さんなんですよっ!」 |
|
「う゛ぁだしのねごふにゃにゃん!
どごにひぃったのうう゛ぁぁぁぁぁぁーーんっ!」 |
|
「本当にこの人、大学生っ?」 |
|
「ねごびゃんがあああぁぁぁーーっ!
いなくなっびゃぁぁぁーーっ!」 |
|
「猫はなんとか聞き取れました。
猫になにがあったんですか?」 |
|
「ぶあぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」 |
|
「はぁ、だめだこりゃ……」 |
ぼくが、部屋に入っていくと、
カナメの顔がこちらを向きました。
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|
「あ、猫だ」 |
|
「にゃん」 |
合図として鳴いてみると、
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「にゃ、にゃん?」 |
ご主人さまは
くるっと、
ぼくの方に顔を向け、
5秒ほど表情が止まりました。
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「ねっこにゃーんだぁ♪」 |
うるうると大粒の涙を出します。
さっきのは哀しみの涙。
これは、喜びの涙。
|
|
「
帰ってきた、
帰ってきた、
帰ってきた
にゃぁぁーんっ!」 |
カナメを突き飛ばし、
ご主人さまはぼくにタックルします。
両手でがっしりとつかみ、
高い高いをしなから、
くるくると回るという、
盛大な歓迎振りでした。
満足すると、ぼくの顔に頬ずりして、
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「にゃーん、にゃーん、にゃーん!
ばんざぁぁぁーーーーーいっ!」 |
と大喜びです。
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「えっと、
感動の再会のところ申し訳ないですが……」 |
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「うち、ペット禁止ですよ」 |
|
「………」 |
カナメの冷たい言葉に、
ご主人さまは氷に閉じこめられたように硬直としました。
暫くして、
凍った体のまま
ギギギギと
カナメの方に顔を向けます。
|
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「カナメちゃん、なにかな?」 |
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「だからペット禁止」 |
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「ペットじゃないよ」 |
|
「なんですか?」 |
|
「これはね、ぬいぐるみなの」 |
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「うっわー、びっくりしたなー。
今のぬいぐるみって、
本物の猫そっくりにできてるんだぁ」 |
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「そうだよ、
さすがはメイドインジャパンだね。
世界一の技術力なのだよ」 |
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「ふぁーう」 |
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「あくびしましたよ」 |
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「リアルに動くぬいぐるみなんだよ」 |
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「にゃあ」 |
|
「鳴きましたね」 |
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「違うよ。
わたしが鳴いたんだよ、にゃあ」 |
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「ぜんぜん、違う声ですよ」 |
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「たまたまだよ」 |
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「はぁ……。
部屋が荒らされてたの、
泥棒が入ったんじゃなくて、
この猫がやったんですね?」 |
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「猫じゃないよ、
わたしがひとりプロレス愛に目覚めて、
やらかしたんだよ」 |
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「おしっこも?」 |
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「うん、わたしがおねしょしたんだよ」 |
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「床に落ちてたうんちは?」 |
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「もちろん、わたしのだよ。
床と便器を間違えて、しちゃったの」 |
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「どこまで強情なんですか、
というか、
普通に馬鹿ですね」 |
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「馬鹿じゃないよ、
ツバメはお利口さんだよ。
その証拠に、
ツバメはよく風邪を引くんだよ」 |
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「いい加減にしてください。
怒りますよ」 |
ご主人さまは、
膝立ちの姿でカナメにすり寄ります。
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「お願い、みのがしてぇぇーっ!」 |
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「ペット禁止なの知ってるじゃないですか、
なんで飼おうとしたんですかっ!」 |
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「だって、タマザブロウが可愛くて、
一目惚れしたんだもんっ!」 |
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「んな言い訳、通じませんっ!」 |
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「でもでも、
203号室のハルさん。
ミニチュアダックスフンドの
トシゾウちゃんを飼ってるんだよ」 |
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「あの人は特別っ!」 |
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「えこひいきだぁーっ!」 |
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「しょうがないでしょ。
ハルさん、80歳を過ぎている
一人暮らしのおばあさんなんですよ。
旦那さんは亡くなられてて、
子供だっていないし、
身寄りがどこにもないんです。
かわいそうで、
ペットは駄目だからって、
追い出せないんですよ。
しつけ、ちゃんとできてるから、
まぁいいですけど。
本当は、いけないことなんです」 |
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「わたし、ハルさん好きだよ。
よくね、
お煮物をお裾分けしてくれるんだ、
わたしの贅沢品だよ」 |
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そりゃ、私だって、
よく貰っているけど、美味しいし」 |
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「だから、わたしも見逃して」 |
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「いや、話繋がっていないですから。
ナツミさんは駄目です。
一度許したら、
私も私もって、
ペット飼う人が増えちゃうんだから。
ルールは守って下さい。
猫飼うのなら、
ここを出て行ってもらいます」
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「わたしの体を売りますっ!
揉むなり舐めるなり抱き枕にするなり、
好きに使ってください!」 |
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「いるかっ!」 |
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「なんでぇーっ!」 |
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「わたし、女っ!
男でも、そういうことは言わないでくださいよ。
自分を軽く売るなんて、
良くないことですからね」 |
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「でもね、カナメちゃん」 |
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「なんですか?」 |
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「猫は、こんなに可愛いんだ。
癒されるし、
和むし、
愛でいっぱいあふれているんだよ」 |
ぼくを、カナメの前に持っていきます。
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「にゃあ」 |
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「にゃあにゃあ」 |
ぼくとご主人さまは、
目をぱっちりとさせた、
邪心のない顔でカナメのことを見つめます。
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「う……」 |
カナメは、顔を真っ赤にします。
口がにやけそうになり、
手がうずうずと疼いていました。
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「抱いても、いいですか?」 |
敗北したように小声で聞きました。
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「いいよ、
好きなだけ抱かせてあげるよ。
わたしも抱いてもいいよ」 |
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「そっちはいりません」 |
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「そんなぁ」 |
カナメは両腕で、
生まれたての赤ん坊に触れるように、
こわごわとぼくを抱いていきます。
カナメは、
ぼくを抱いてくれた人間たちのなかで、
尤も小さい体をしています。
思春期に入りかけた、
まだ未発達な状態で、
それは肉体面も精神面も
言えることでした。
感性はしっかりしていようとも、
ちょっと突けば、
壊れてしまいそうな、
そんな心を感じられました。
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「ふふっ、かわいい」 |
カナメは微笑みます。
心の中に掛かっていたモヤのようなものが、
少しずつ晴れていくかのように。
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「この子の名前、
なんていうんですか?」 |
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「えっとね、
タマキチっていうんだよ」 |
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「さっき、
ムツゴロウとか、
タマザブロウとか
言ってなかったですか?」 |
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「言ってないよ、
全然言ってないよ、
この子はサイトウアツシだよ」 |
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「いや、タマキチでしょ?」 |
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「そうとも言うかもね。
でも、色んな名前があるほうが、
面白いと思わない?」 |
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「思いません。
統一してください。
この子は、タマキチ。
たった今、私が決めました」 |
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「うん、決まったね。
猫にゃんはタマタマだ」 |
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「タマキチ」 |
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「カナメちゃん、
カナメちゃん。
それで、わたしが飼うの許可してくれる?」 |
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「許可しません、ルールは絶対。
だから……」 |
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「私が飼います」 |
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「カナメちゃんが?」 |
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「そうです。
ナツミさんが飼うのは
大失態をやらかしそうで、
色々と心配です。
その証拠に、
部屋が凄いことになっているし、
タマキチも逃げちゃったじゃないですか」 |
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「う…否定できない」 |
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「だから私がタマキチの世話をします、
それで……」 |
ぼくを、ご主人さまに返しました。
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「ナツミさんが預かってください」
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「え?」 |
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「私のペットを預けるんですから、
それならナツメさんの部屋にいたって、
別にいいと思います」 |
自分でも無理がある理屈だと思っているようで、
照れた顔を隠すように、
俯いていました。
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「カナメちゃん」 |
ご主人さまの目から、
再び涙が浮かんできました。
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「大大大好きにゃんっ!」 |
ぼくを宙に投げて、
カナメに抱きつきました。
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「わーっ! タマキチがっ!」 |
気にすることありません。
猫は柔軟性ありますので、
衝撃することなく地面に着地です。
ご主人さまは、
カナメの体を倒して、
「ありがとうありがとありがとにゃん!」
と抱擁攻撃をしています。
カナメ「わわわっ、ナツメさん、
キス! キスしないでください!
顔がべとべと、
ちょっ、
口は駄目っ、
わたしのファーストキス奪われるっ!
ひゃーっ!
鼻水が垂れてるっ!
こっち近よるなっ!
ぎゃーっ! 口に入ったぁーっ!」
仲のよろしゅうふたりは抱き合い、
賑やかにじゃれ合っております。
ジタバタとする足がぼくにぶつかりそうになりました。
巻き込まれぬよう、
ご主人さまのソファーベットに上がり、
丸くなりました。
下は柔らかくとも、
日の光を浴びない、
少々寝付きにくい場所でありましたが、
大冒険をして疲れ切った体は、
すぐに夢の世界へと入っていきました。
極楽、極楽。
こうして僕は
「タマキチ」
と名付けられ、
ご主人さまと共に
カナメのペットとなりました。
食事はキャットフードという
素っ気ないものを与えられますが、
別段グルメでないぼくなので、
特に不満はありません。
ネズミを取りたい願望はありますが、
狩りをする度胸はなく、
未だに食えずじまいのままです。
多くの日々をマンションの一室で過ごし、
たまに外出が許されるという
自由のない生活を送っておりますが、
猫以上に破天荒である
ご主人さまと生活をしておりますので、
退屈はしておりません。
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2話『ああ動く、カナメが動く』
第1回『な、なんなのこの人…』
に、つづくであります
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